はしっこ

働くブスが高校生の時から書いてる日記

10年

 こないだの3月末で、父が亡くなってから10年が経った。

 10年、10年か…と噛み締めてる間に2ヶ月も経過していた。どういうこと。

 節目の年であることには変わりない。いろいろ思うところがあるので、久しぶりにブログを書こうと思って、そして2ヶ月経っていた。

 なんかもういろいろわからなくなってしまったけど、3年目のブログ( 3年目 - はしっこ ) を今でもたまに見て、なるほどなと思うこともあるので、記録として残しておこうと思う。

なんでこんなに時間がかかったんでしょうね

 ブログ一本書くのになんでこんな時間がかかったんだろう。

 筆は遅いほうだとは思うけど、今回に関してはなにかがひっかかって悩む時間が9割だったと思うから、そこからとりあえず整理しておこうと思う。

1. 若干の職業病

 職業病になるほどの職ではないんですけど、文章を書く機会が多い職場で。

 文章といっても一回一回決裁をとる報告書を書く回数が多いってだけなんだけど、キーボードカタカタしてる時にいつも頭をよぎるのは、誰か、多分親に言われた言葉だ。

「アンタの文は修飾語だらけで読み辛いけど、そういうのが好きなんだろうね」

 さすが親。そのとおりです。

 昔の二次創作とかみても、修飾語や繰り返しが多い多い。9割それだ。

 当たり前のことなんだけど、職場で書く文章に修飾語は不要だ。感情が読み取れるような文章であってはいけないはずで、誰が読んでもフラットに事実だけが読み取れる文章でなくてはいけないと思ってるうちに、本来の自分の文章がわからなくなってしまった。

 何度書いてもしっくりこない。

 わたしの文章って、私が書きたかったものってこんなのだったっけと思って筆が止まった。

 まあ今読み返したりしてたら十分しつこい感じの文章なので、そう簡単に人の文癖は治らないなと安心した。わたしの自意識過剰だった。

 ただ、こうやって項目分けしたりするようになったのは、いい意味で職業のおかげだと思うから、いい方向に生かしていきたい。

 

2. 地震のこと

 わたしの父が亡くなったのは、東日本大震災が起きた約2週間後だった。

 被害を受けた地域ではなかったので、計画停電で火葬が遅れたこと等を除けば、ありがたいことに地震の被害を受けることはなかった。

 東日本大震災から10年、節目の年だ。

 3月11日前後のテレビは、被害を振り返り、家族や大切な人を亡くしても懸命に前を向いて、地元に貢献したりして人生を歩んでいる人たちの特集で溢れた。

 わたしはなんなんだろう。

 特になにもなく、前を向くでもなく、かといって自分にきちんと向き合うわけでもなく、いろんなことから首をぐりんぐりん曲げて目を逸らして、それで10年過ごしてきたわたしは。 

 よほど辛い思いをして、よほど辛い環境でなお頑張れている人たちがこんなにもたくさんいるのに、わたしは一体なにをしているんだろう。

 何かになりたいわけでもなく、何かになりたいと強く思ったこともない。

 実家の仏壇に目を向けることができず、線香の一つもあげない。

 わたしの気持ちを、何かに表すこと自体、烏滸がましく汚いことではないかと思ってしまった。

 まあ基本自分の記録用だし、こう言う気持ちも含め記録しておくことで未来のわたしやわたしに何かあった時に家族がみれる記録用として、役に立つかも!しれないしね!と思って書くことにした!

 

10年間、わたしの人生の目標はなんだったか

 10年、10年て。長。

 中学生だったわたしが、就職して3年、4年目か。すっかりくたびれたOLになった。

 それぐらいの年月。今のわたしは、父親の想像から遠く離れているだろう。というか、想像さえできなかった姿だろう。

 この10年、なにをしてきたか。

 特に……………なにもしてないな………………

 切なくなってきた。

 この10年間のわたしの人生の目標は、親から育て上げた、子育ては終わったと思ってもらうことだった。

 具体的に言えば、自分1人の稼ぎで衣食住を賄える、健康的で最低限度の文化的な生活を営んでいる、そういう状態で、それをいつでも親に開示できる状態になる。それが目標だった。

 父が亡くなったとき、兄弟は既に大学生、多分就職も順調にできそうな感じで、明らかに手がかかるのはわたしの方だった。にもかかわらず、大学に行くという我儘まで叶えてもらった。

 特にやりたいことは見つからなかった。好きなことはいっぱいあったが、これで身を立てたいと思うようなことはなかった。

 高校生の時は、とにかく早めに全部終わらないかな、と思っていた。思春期特有のマインドだ。死にたいとかそう言うことではなく、打ち切りになった漫画みたいに、急に停電の起きた映画館みたいに、ブチッとここで終わってしまえば楽だなと、ぼんやりしていた。

 社会人になって思うのは、一番気力体力が必要なのは、学生時代だなということだ。前への推進力みたいなものは、思春期のあのマインドでないとだせない。少なくとも今は無理。

 当時のわたしは、なんとか前に進まなければという義務感だけはあったので、目標を立てようと思った。それだけを見て、後は見ないふりをして、形だけでも人生を前に進めている感じを出そうとしたのだ。

 で、立てた目標がアレだ。

 依存的だと思う。当時もそう思ってたし、今も変わらず依存的な生き方ではた迷惑だと思う。

 ただ、それが生きる指針になっていたことは確かだ。

目標は達成できたのか。

 できたはずだ。

 多分、目標の言葉そのままでいえば、達成といえる。

 給料はそこまでよくないけど、とりあえず安定した職について、3年勤務した。転職を考えたりもしてないので、親にもとりあえずこのまま生きていくと伝えた。

 よかった、と何度も繰り返す親を前に、達成感を覚えている。

 ただし、目標が低すぎたことに気づいてしまった。3月のことだ。

 上にも挙げたように、地震のことがあって、わたしが立てた目標は、はなからお話にもならない、基礎的なことだったと気がついてしまった。

 それをドヤ顔で達成感を覚えていたわけだ。どこかでうっすら、これは目標ではなく最低限だと分かっていたはずなのに、10年間向き合わないでいたツケを、今払わなくてはならなくなった。

 情けないことに、打ちのめされてしまった。

 10年間が、無為に思えた。

 わたしは、わたしのことを必要以上に可哀想がるくせがある。まるでわたしが一番可哀想かのように振る舞うことが多々あって、反吐がでる。最低だ。今も、最低と先に言うことで、許されようとしている気がする。気持ち悪い。魂胆が透けて見える。最悪だ。

 要は、自分を可哀想がる行為を、ただひたすらに10年間続けてきたのだと気づいて、勝手に傷ついている。

これからどうするか。

 いつまでもぐちぐちぐちぐち言っていても仕方がない。それこそさらに周りに迷惑をかけるだけだ。どうにか整理をしなくてはならない。

 その整理に、長く時間がかかった。

 結局ここでも自分のだらしなさについて言い訳してしまう。最低。

 で、考えて考えた結果、やばそうだったので、とりあえず自分で立てた目標を、自分で達成したという点だけ、そこだけ認めることにした。

 世間一般的には、とても褒められることではないけど、他の全てはだめなんだけど、そこだけ達成したということにしよう。

 もう人生の目標は達成したので、わたしがわたしの人生のために何かをするのは終わりにして、仲良くしてくれる人のなるべく邪魔をしないように、もし可能なら助けになれるように、そうやって生きていくことにした。

 自分が最低な人間だということは、これから時間をかけてゆっくり向きあって、なにかツケを払う必要があれば、払おうと思う。

10年を経て、変わったこと

 今自分は幸せだ。

 胸を張っていえる。そして、そう言い切れることが、どれだけ恵まれているか、少しは理解しているつもりだ。

 話してくれる人がいる、仲良くしてくれる人がいる、職がある、食べられる、暮らせている。

 今後はそういうことに感謝の意を示せるように、なんとなく意識高い感じで(?)、なるべく自分に厳しく生きていこうと思っている。

 10年後、までいかなくても、5年後の自分が、この文章を何かの拍子に見た時に、納得してくれるように過ごしていこうと思う。

 

 あんまり長くならなかった。

 いろいろ消したり足したりしたわりにそんなでもなかった。

 おわり。